ようかんの歴史

ようかんの歴史

大分県玖珠町に古くから伝えられる平川ようかん。

一般的に想像されるゼリー状の羊羹(ようかん)ではなく、里芋を練り混ぜたうるち米の生地で餡を包み、蒸気でじっくりと蒸すことで完成するこのお菓子は、歴史の深いお菓子なのです。

大分県の最も古い三大祭りの一つに数えられる「滝の市」で売られていたという伝承のお菓子なのですが、表面に描かれた食紅の線はお祭りのお祝いの意味も含め “熨斗(のし)” を描いていると考えられています。

昔は今の形よりも大きく封筒くらいの大きさで、熨斗を意味する線も大筆の幅くらいの太さで描かれていましたが、世の中の機械化の影響でサイズはどんどん小さくなり、線も現在の細い1本線となった訳です。

始まりは中国

羊羹は中国から渡って来たとされています。最初に日本に羊羹が伝えられたのは遣唐使の時代で、朝廷への献上品の一つとして中国から持ち帰られたものであったそうです。羊羹は、羊のあつもの(羹)であり、羊肉のスープ(鍋)であったとされます。

当時、日本は仏教国であり動物を食べることはなく、朝廷の菓子職人(現在の虎屋)が、この羊羹に見立てて餡・小麦粉・葛を用いた蒸し菓子を作ったことが始まりだとか。当時まだ菓子類は、饅頭と言われていたと思われます。饅頭と呼ばれたこの菓子も、遣唐使によってもたらされた中国の文化が影響されているようです。

中国ではその昔、三国志の時代、兵を率いて大河を渡ろうとすると兵士が幾人も吞み込まれて流されてしまうので、河の神を鎮めるために人の頭ほどもある饅頭を河に流したことにその始まりを見ることができます。(饅頭 = 万十)現在、コンビニなどで売られている中華まんは日本版サイズで、本来であれば、両手で抱えるほどのサイズだったのです。

中国からの伝来後、日本ではゼリー状の羊羹に発展を遂げたそもそもの背景には、実は大航海時代にあった世界の動向が大きく関わっています。

1543年 種子島に鉄砲伝来、1549年 キリスト教伝来、宣教師フランシスコ・ザビエル来日。日本史における一般的な記述はご周知のとおりです。

この時代、日本は戦国時代の真っただ中。ポルトガル人が日本に伝えたのは、鉄砲やキリスト教だけに留まりません。キリスト教の布教には、教えを話し伝える上で、お菓子の振舞いが行われました。当時、日本にはないサトウキビから作られた砂糖が伝えられたのです。

大航海時代のポルトガルやスペイン、オランダ、イギリス、フランス諸国の植民地化の競い合いは凄まじい勢いでした。ポルトガルは先立って宣教師を派遣し、各地での改宗を促し、その後にその国を植民地化していくというものでした。

(日本が他の国と同じように植民地とならなかったのは、日本独自に発展してきた皇室の成り立ちから始まる国創りの厳格な基礎があり、揺るがない国の秩序があったからと言われています)

フランシスコ・ザビエルは、当時全盛期であった織田信長に会い、キリスト教布教の許しを得ています。初代虎屋の当主 黒川円仲氏は蒸し羊羹を作り、京都伏見の鶴屋 初代当主 岡本喜右衛門氏(後に駿河屋本舗となる)が1589年 駿河屋大茶会で、豊臣秀吉に練り羊羹を献上。

ここから各地で練り羊羹創りが盛んになったものと考えられています。これに拍車をかけたのは、豊臣秀吉が茶の湯を始めたことが日本のお菓子の歴史の大きな転換点となったことは言うまでもありません。

羊羹は保存性が高く常温でも保存可であるため。携帯食などにも優れ、旅や山登りに重宝されました。江戸時代に入り、天草(てんぐさ)などから作られるところてんを誤って寒さに晒してしまったことから、偶然できた寒天の製造が京都で始まり、さらに羊羹の製造法は確立的進歩を遂げたといえます。

このように、各地に存在する練り羊羹は、様々な形となって現在に至っています。

ここまでお話してきましたように、ポルトガルによりもたらされた砂糖が羊羹作りに欠かせなかった訳ですが、実は、九州にはこれとは異なる「ようかん」があるのです。

1790年 徳川家斉の祝賀のため、薩摩を目指していた琉球王朝中山王の使節団約50人が台風で天草の崎津に漂着。救助などにあたった村民へのお礼に「杉ようかん」を伝授とあります。

また、1896年 熊本県山鹿市には、「山鹿ようかん」という棒状の餡を羊羹に見立てて、それを薄皮のだんごで巻いて蒸したもの。祭りやにぎわい、懐石などの場で食べられていたそう。

1900年頃、宮崎県高岡町では「長饅頭」。(当時、島津藩領内にて「竿饅頭」「糸切饅」などの呼び名もあったそうです)

また、同じく宮崎県の宮崎郡佐土原藩内では「鯨ようかん」があります。

1870年 大分県別府市では「志きし餅」。

時代はさかのぼってしまいますが、1592年 佐賀県では豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に近くの神社で、勝つまではけえらん(帰らない)と言ったことから名づけられたと言われる「けえらん饅頭」。

そして、1870年、大分県玖珠町の滝の市大祭にて「平川ようかん」。農家である家々では、滝の市の時期になると米と小豆でようかんを作っていたという。

1872年 佐賀県の小城羊羹創業。当時も現在も、本家であるゼリー状の練り羊羹の九州での主流は、佐賀の小城羊羹であるが(創業にあっては老舗虎屋より伝授を受ける)このように、日本独自の発展を遂げてきた「羊羹」とは別な経路で、その形も容姿が異なる「ようかん」の文化が存在しているのです。